変換器の雑記

観た映画やアニメの感想を書いていくかも知れません。

スタァライトされてしまった人間の殴り書き・・・劇場版の感想②

 


前回↓からの続き。

 

henkan-ki.hatenablog.com

 

 

引き続きネタバレ全開なので、未見の方は絶対に先に本編を観ることをおすすめします。

 

 

 

 

《星見純那と大場ななについて》

 

狩りのレヴュー。
シリーズを通して圧倒的強キャラ感を出し続ける大場ななと、敗北描写が多く「才能では真矢やクロディーヌに及ばない」と自覚する面もある星見純那
レヴュー序盤こそ大道具を操ってばななに大技を繰り出す純那ですが、あっという間に覆され、心を折られてしまいます。
どうしたんだばなな・・・純那が泣いてもそんな冷たい反応しちゃうような子だったっけ!?

 

舞台少女たちの感情のぶつけ合いというのはシリーズ通しての中心要素、言わば醍醐味。胸が熱くなる・苦しくなるは必至だと思うのですが、個人的にはこの純那の涙が一番辛かったです。

 

TVアニメ序盤において、純那は舞台のことを「勉強ばかりだった私が初めて自分で見つけたもの」と言っていました。
誰かに言われたからではなく、誰かと比べられたからではなく、自分が出逢って、自分が感動して夢中になった舞台。

 

才能が無いことを自覚することがどれだけ辛いことか。
努力して名門校に入学した先で、同級生たちとの格の違いを思い知らされる日々がどれだけ険しいことか。

 

これは少し脱線した話になるのですが、私は「才能」という言葉があまり好きではありません。
というよりは、何らかの能力を発揮して芸能や仕事で活躍している人に、「あの人の才能はすごい」という評価が下される場面が好きではありません。
なぜかというと、その活躍している人たちは才能だけで活躍しているわけではないからです。
確かに、生まれ持った向き不向き、適正性は人によってバラつきがあるでしょう。
ですが、何らかの分野において活躍している人というのは、その適正を運良く、もしくは運命的に見出し、磨いた努力をした先に活躍をしているわけで。
更には活躍している最中にも努力を怠らない人も存在するわけで。

 

では、そんな適正すら持っていない自分が、並外れた天才たちに努力だけで立ち向かえるか?
努力をやめない天才に立ち向かえるのか?

 

簡単に答えを出せるものではないでしょう。
多くの人は諦めてしまうかも知れません。
私はきっと、その多数派の中の1人です。

 

でも・・・それでも。
それでも星見純那は立ち上がる。
なぜなら彼女も舞台少女だから。

 

 「他人の言葉じゃ駄目!」

 

彼女が叫んだ時、客席で私は涙が止まりませんでした。
作品内での扱いを見るに、星見純那という登場人物は個性際立つ99期生の中でも恐らく一般人代表という立ち位置にあるのでしょう。
そんな彼女が自らの言葉で名乗りを上げた。
そんな彼女が発する言葉だからこそ私のような一般人に深く突き刺さった。

 

才能は無く、がむしゃらに努力するしかない。
自らの武器を失っても、他人の武器を奪ってでも。
ひたすらに戦って、並々ならぬ強敵の喉元に牙を突き立てる。
狩られるのはお前の方だと。

 

 世界で一番かっこいいよ、星見純那・・・。

 

「自分の言葉で立ち上がらないといけない」ということに気づかせてくれたのが先人の言葉であった、という構図も、彼女が今までしてきたことの全てが彼女自身を後押ししてくれた、次の舞台へ踏み出す力になってくれたのだということを表しているように思います。


レヴューの終演後、ばななと純那は背中を向け、別々の道へ歩いて行きます。
行く道は違ってもいつかまた2人で・・・。
あの天堂真矢すら倒してしまう圧倒的強者とも肩を並べられる彼女なら、もう心が折れることは無いのでしょうね。

 

ここまで読んで下さった方はもうお分かりでしょうが、私は星見純那という人物に最も心を掴まれてしまったのでした。

ありがとう、星見純那さん。

 

 

《キリンについて》

 

そしてこの舞台の狂言回し、あるいは私たち自身。
なんか野菜になってます。めっちゃ恐い。
彼(?)が何者だったのか、どこから来たものなのか、どうしてそんなに良い声なのかはついに語られることはありませんでした。

 

ひかりが「ワイルドスクリーンバロックって何?」と問いかけるシーン。
私は頭の中で「そうだそうだ!言ったれ言ったれ!」とエールを送っていました。

 

しかし、突如燃え上がる野菜(キリン)。
辞世の句を放って落ちていく野菜(良い声)。

 

 は???


とりあえず、落ち着いて考えてみることにします。

 

彼が私たち観客を指すメタ的な存在であったことはTVアニメを見ても分かりますが、そもそもなぜ敢えて自らが役を得て舞台に登場したのか?
そして、なぜわざわざ登場したにも関わらず終演を前に退場したのか?

 

彼が退場した後も『劇場版』は続きます。
それでは、この後に続く華恋とひかりの対峙において、彼女たちが感じた「観客の視線」とは?
もちろん、それは映画館に居る私たちからの視線に他なりません。


キリンはきっと、舞台から退場すると同時に舞台に火を焚べ、客席に居る私たちの中に帰って来たのでしょう。
「舞台は観客が居てこそ成立する」。かつてキリンが言っていた台詞です。
自ら燃え上がることで燃料となり、主役の2人を引き合わせるための道標となり、「観客が見ているぞ」と主役に伝えることで舞台を成立させ、自身は舞台上から去り観客席へ。
それが彼の持つ「役割」だったのではないでしょうか。

 

そして「wi(l)d screen baroque」という言葉。
素直に解釈するなら、野生的で歪な、ありのままの舞台の創造というような意味なのでしょうか。劇中でも何度か「飢え」や「渇き」と、野生的な貪欲さを表す言葉が登場します。
wild がwi(l)d と表記されていることから察するに、ワイドスクリーンバロックとかけているとも思われます。
ワイドスクリーンバロック」とはSFの用語で、脈絡の無いはちゃめちゃな作品のことを自虐的に評した言葉だったような気がするのですが・・・間違っていたらすみません。
難解で奇抜な演出を多用するこのシリーズのことを自虐した意味合いも含んでいるのかも知れませんね。


キリンがなぜ野菜の姿になっていたのか、そもそも彼はどこから来たのか・・・。
キリンについてはまだ理解し切れていない部分が多いですが、これも先人の解釈を拝見することにします。

 


《天堂真矢と西條クロディーヌについて》

 

魂のレヴュー。
説明不要の激闘、劇中一番の大サービス。
これを見てこの2人が好きにならない人居る?

 

この2人、作中ではトップを争う実力者と何度も言及されるのに反して、正直なところ個人的には印象の薄い2人でした。
特に真矢については物語の開始時点で1人の舞台少女として完成しきって(いるように見えて)おり、本人の性格的にも他のテンション高めな面々ほど主張が激しくない・・・と、前述した星見純那とは真逆の、一般人から最も遠い存在であったのかも知れません。

 

クロディーヌについては、双葉との練習で見せる面倒見の良さや真矢に食ってかかる血の気の多さ等、人となりを知る機会はいくらでもありましたが、単独の主役回が無かったことが多少影響しているのかも知れません。
「天堂真矢は負けてない!」のシーンやフランス語がバレバレで赤面するシーンなんかは非常に良かったですけどね!

 

そして、私にとってそんな印象の2人が繰り広げる魂のレヴュー。
悪魔役のクロディーヌのビジュアルが100点満点中8,000点くらいだったのは言うまでもないですが、なんだか他のレヴューほどの熱量を感じない・・・と思っていました。
やはり自分の中でこの2人への理解度が低いからか・・・そんなことも考えていました。

 

甘い。甘かった。
頂点に君臨する舞台少女はその程度では終わらない。
観客を魅了しないわけがない。

 

「奈落で見上げろ、私がスターだ!」

 

こんな台詞が吐ける人、他には居ない。いや、もはや人ではないのかも知れない。

 

今までの澄まし顔を脱ぎ捨て、貪欲に勝利を求める天堂真矢。
本気を出した超常的存在に、あくまでも食らいつく西條クロディーヌ。
余裕なんて無い。意地汚くても勝つのは私。

 

圧巻の殺陣、縦横無尽のアクション。
これぞ存在意義とばかりに爆裂四散する舞台装置。
なりふり構わず、剣を打ちつけ、身体を叩きつけ、火花を散らし。

 

アクション映画やアニメが大好きなので、このバトルだけでも観る価値があったと思わされるシーンでした。

 

そして決着ーーー最後の最後で切っ先を届かせたのは西條クロディーヌ。
ここで安易に真矢が勝つ展開にしなかったことに拍手を送りたいです。
この敗北を経験することによって、きっと天堂真矢は成長する余地が出来た。
頂点に甘んずること無く、彼女もまた次の舞台へ。

 

クロディーヌの剣戟を避けるため自らの身体を地面に叩きつけるように倒れ込んだり、負けた後にはすぐさま再戦の約束を取り付けたり。
恐らくこの2人は似たもの同士で究極の負けず嫌いなんだな・・・と、ようやく理解出来た気がします。

 


《愛城華恋と神楽ひかりについて》

 

最後のセリフ。
ついに対面する2人。

 

はっきり言ってしまうと、私は愛城華恋について異常性のようなものを感じていました。
幼い頃に交わした約束、それを叶えるため奔走する2人。フィクションやドラマではよくあるモチーフだと思います。
ですが、この2人の場合は約束をしてからそれを叶えようとするまでの十数年がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
果たして、返事の無い手紙を十年以上も書き続けることが出来るでしょうか?
忘れられてしまっているかも知れない約束のために、頑張り続けることが出来るでしょうか?

 

今回の『劇場版』で、その辺りについて掘り下げられたことがとても嬉しく思いました。
やはり、「忘れられているかも知れない」という不安は常に抱えていたんですね。
ひかりが王立演劇学院に入学したということも調べてしまった。ここでそれ以上踏み込まなかったのは華恋の頑なな部分を感じずにいられませんが・・・。

 

私は、この2人の間にあるものは約束や運命ではなく、一種の呪いだったと思っています。
果たされたが最後、身を滅ぼして足元から崩れ落ちていくもの。
だってそうなんですよね。
他の舞台少女たちは自らの未来のために舞台に上がっているのに、華恋だけは他人との過去のために舞台に上がっている。
この差はいつか大きく響くことだろうと思っていました。

 

そして迎えた、ひかりとの対峙。
ひかりはまひるとの対話により、キラめきを取り戻して舞台に立っています。
舞台に立てていないのは華恋だけ・・・。
ひかりとのスタァライトを終えた後、どうしたらいいか分からなくなっていた華恋。
この辺りは舞台版『The LIVE #2』でも同様の描写がありましたね。

 

舞台を見失った華恋に、容赦無く私たちの視線が突き刺さります。
こんなに近かった、こんなに熱かった、こんなに怖かった・・・知らなかった、華恋はひかりしか見ていなかったから。

 

そして、突如倒れる華恋。
駆け寄るひかり。
「死んでる・・・」

 

 

えっ、し、死んでるの?!?!


いや、それはそうなんでしょうが。
あまりにも表現が直接的でびっくりした。

 

舞台少女としての死を迎えた華恋。
ばななが唯一皆殺しの対象にしなかった華恋は、今度こそ舞台少女として死んでしまいます。
あるいは、既に死んでいたから皆殺しのレヴューに加える必要が無かったのか。加えられなかったのか・・・。

 

ですが、華恋を殺したのがひかりとの過去なら、華恋を生き返らせたのは現在のひかりでした。

 

意外にも引っ込み思案だった幼少期の華恋を、舞台に連れて行ったひかり。
消極的なきっかけではあったとしても、華恋の中には確かな感動が芽生えていたはず。
ひかりとの舞台上での共演を夢見るより前に、胸にあったのはただ純粋な舞台への憧れと感動。

 

「迎えに行くからね、華恋」
その言葉の通り、ひかりは華恋の前に現れました。

 

あの時交わした約束は既に果たした。これから立つのは新たな舞台。

「私からお手紙送るね」

約束を破ってひかりから華恋へ手紙を出すことこそ、2人が過去ではなく現在に生きている証明。

全ての始まりになった手紙も、約束の舞台に向かって走り続けた過去も、すべて焼却して今を輝く燃料に。
愛城華恋は日々進化中、舞台少女は何度だって生まれ変わる。
何度もそう言っていたのは他ならぬ彼女自身でしたね。

 

「私もひかりに負けたくない」

神楽ひかりに、舞台を照らす眩い光に、まだ見ぬ未来の光に負けないように。

 

華恋とひかりは見事「2人で演じるスタァライト」という約束から脱却して見せました。

 


《脱却、あるいは卒業》

 

全体を振り返ってみて、この『劇場版』については「一足早い卒業式」という印象を受けました。
主役9人の、それぞれの因縁や依存からの卒業。
ばななの言葉を借りるなら、「ケリをつけた」。

 

というか、3年生になったばかりの5月の時点でこんなことしちゃって、本当の卒業式まで気まずくないの君たち・・・?

 

そして『少女歌劇レヴュースタァライト』という舞台は終わり、新たな道を行く彼女たちを見届けた私たちもスタァライトから卒業し・・・私たちの人生という、私たちの舞台の上へ。

この作品において、これ以上の終演があるでしょうか。考えうる限り最高の終わりだったと思います。

 

ただ、あまりの情報量に咀嚼し切れていない部分や、明確に覚えていないシーンも数多くあるとは思います。まだまだ気になる部分も沢山あります。

個人的に特に印象的だったのは、華恋の回想シーンがTVアニメ版とはいくつか異なっていた点です。

 

・東京タワー前の公園で約束する際、滑り台から降りていた

・ひかりが転入してきた際、華恋は立ち上がらずに微笑むだけだった

・華恋とまひるでひかりを案内する際、歩いていた道が違う

 

もしかすると、TVアニメ版とは違った再演の先に『劇場版』があるのかも?

冒頭の華恋とひかりが対峙するシーンの時間軸の不明瞭さにも関連づけられそうですが、上記はあくまで回想でしかないので、「人の記憶なんて細かい部分はあやふやなものだ」と言われてしまえばそれまでですね。
もし私の読みが正しかったとするなら、その再演は誰が行っているのかという新たな疑問も湧いてきますが・・・。

恐らく私には思いもよらない仕掛けや思惑が張り巡らされているのでしょうが、それらについて深掘りするのは今後どこかの機会のために取っておくことにします。

 

B組にも多少スポットが当たった点や、華恋の家族や中学時代の同級生等々、TVアニメでは描かれなかった部分にも考えを馳せたいところなのですが、あまりにも長くなってしまったので今回はこの辺りで。

 

 

いやーしかし、もう一度観たい・・・何度でも観たい・・・BDや配信ではなく、映画館で何度でも。
そう願ってしまう私は貪欲なキリンと同じだなと感じるのですが、きっとこれは私だけではないですよね?

 

ここまで読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。それではまた。

 

 

スタァライトされてしまった人間の殴り書き・・・劇場版の感想①

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『少女歌劇レヴュースタァライト

私は盛大に出遅れながらもこの沼に落ち、感情をグチャグチャに掻き回されてしまった一人のオタクです。
TVアニメ12話、総集編『ロンド・ロンド・ロンド』、舞台『The LIVE #1』と『The LIVE #2』のリバイバル上演版を立て続けに視聴し、その勢いのまま『劇場版』を観劇しました。

 一度に大量のキラめきを浴びてしまって既に虫の息です。ありがとうございます。

今のこの気持ちをどこかに吐き出したい・・・けど身近にこのシリーズの話が出来る人が居ない・・・じゃあ取り敢えず、文字に書き出すことで発散しよう。これはそのためだけに書かれた文章です。めっちゃ長いです。

 

 TVアニメ版、総集編、劇場版、舞台版のネタバレ全開なので未見の方はご注意ください!

 

 

 

 

《前置き》

 

以前からこのシリーズに興味はあったのですが、ここまで熱に浮かされ、感情を支配されるとは思いもしませんでした。
アニメ第1話を見始めた時は、「華恋かわいいなー」程度のことしか考えていなかった。
しかし、第1話の終盤・・・オーディションへの飛び入り参加、そこからの名乗り上げ、そして瞬く間に展開される歌と殺陣、決着ーーー。
画面の前に座る私の目には、彼女たちのキラめきが時間を超えて空間を超えて、降りかかってきていたように思います。

 

 美しい・・・。


今までに何本のアニメや映画を観てきたことか分かりませんが、「面白い」や「楽しい」ではなく、心から「美しい」と感じられた作品はあまり思い浮かびません。
振り返ってみると、あの時私は確かに『少女歌劇レヴュースタァライト』の客席に着いたのでしょう。
もっと早く観たかった。シリーズが展開されていく様をリアルタイムで楽しみたかった。出来るなら、同じくこの舞台に魅了された観客の方々と一緒に。

『劇場版』の全国公開日は2021年6月4日、もはや半年前のこと。
客入りは大変に好調のようで、都市部では未だに上映する劇場が追加されていっているようですが、ほとんどの劇場では既に上映が終了しています。
『劇場版』のBDがもうそろそろ発売するようだし、それを待つことにしてしまおうか。そんな考えが浮かんだ頃でした。
先日ツイッタースタァライトについて色々と検索している時、こんなことを仰っている方を見ました。

 「劇場版は円盤や配信で済ませばいいやと思っている人、少しでもスタァライトが好きなら絶対に映画館で観て欲しい。映画館で観ることに意味がある作品だから。」

私はその翌々日、片道3時間ほどの道程を車を駆り、某映画館で『劇場版』を観ることになりました・・・。
結果的に、私は大画面に映る99期生たちに釘付けになり、映画館ならではの音響に圧倒され、そして彼女たちの命のキラめきに涙することが出来ました。
『劇場版』のBDは既に予約していましたが、もしもこれを初めて観るのが自室のモニター越しであったとしたら・・・。
素晴らしい作品であることは間違い無いのに、きっと私は後悔していたでしょう。
作り手の方々が魂を込めて作ったものを、それを万全の状態で受け止められなかったことに。そうするために行動しなかったことに、必ず後悔していた。
あの時、私に向けた言葉ではなかったとしても私を劇場まで後押ししてくれた、あなたのおかげです。
本当にありがとうございました。

そうして観劇した『劇場版』。
正直なところ、すべてを咀嚼し、理解し切れたとは全く思えません。

 なんでキリンが野菜なの?
 なんで皆トマト持ってるの?
 どうしてまたあの謎空間に?
 会場は学園の地下だったはずなのになぜ地下鉄?
 皆殺しのレヴューって何だったの?
 キリン死んだの?
 そもそも『劇場版』で行われた99期生それぞれのレヴューは何だったの?

 うん、全然わからん。


きっと公開から今日までの半年間で多くの方が様々な考察や解説をされているのだろうと思いますが、私だけの感想や思考を書き出して自己満足がしたかったので、現時点ではそれらの記事を全く見ていません。
私には専門的な知識や含蓄は無いので表面的なことしか分からないのですが、それでもスクリーンに映る彼女たちは美しかった・・・。
そんな私の、頭の整理をつけるための感想とも考察ともつかない文章を以下に記します。

見当違いなことを言っている部分もあるかとは思いますが、そこはご容赦いただけるとありがたいです。

 

 

冒頭の砂漠シーンについて》


急にトマトが弾けて始まるシーン。
銃撃されたような音も合わさり、めちゃくちゃびっくりしました。
初っ端からぶっ飛んでいる・・・。
理解が追いつかない内に映像は進みますが、どうやらひかりはまた聖翔音楽学園を退学したらしい。
TVアニメ版の最終盤で2年A組に戻り、皆と鍋を囲ったのになぜまた離れていってしまったのか・・・と、観客の興味を引く導入でした。
ひかりは自分の考えや感じたことを全然他人に明かさず一人で行動してしまうタイプだと思っているのですが、それに振り回され続ける華恋が不憫でなりません。
後のシーンでばななが「皆、喋り過ぎだよ」と漏らしますが、ひかりはもっと皆と喋りなさい。

きっと他者との距離感を測ることが苦手な子なんでしょうね。この作品の場合、ひかりだけに限った話ではありませんが・・・。
なぜ退学したのかは後半で語られることになりますが、その理由についての感想は後ほど。

 

皆殺しのレヴューについて》

 突如として電車が変形して現れたステージ。
 ただ一人訳知り顔で立ち塞がる黒ばなな。
 剣戟、大立ち回り、降り注ぐ血のり、皆殺しーーー。

 なんだこれ???

きっとこれ以上無いほどに登場人物と観客の思考がシンクロしたシーンだったことでしょうね。
私の中でまだ整理がつかないレヴューなのですが、ばななが発した「再演を繰り返す中で、皆の死を見た」という台詞と、作品が向かうこの後の展開に答えがあるような気がしています。

きっと「皆の死」とは、『ロロロ』のラストシーンに映った99期生たちの死体の山を指しているんでしょう。
聖翔音楽学園という、入学すら難しい名門学校ではありつつも所詮は閉じられた世界でしかない場所
そこで得る経験、仲間、ライバル、思い出・・・何物にも替え難いものであったとしても、それに満足して歩みを止めるようでは舞台少女としての死は免れない

 

 そんな死を皆に経験させるくらいなら、私の手で殺す。

 

私には、ばなながそう言っているように見えました。
そしてその後、皆はそれぞれのケリをつけるためのレヴューを演じ、解決し、新たな舞台少女としての道を歩き出す・・・アタシ再生産。
ばなながそんな展開まで見越していたかどうかは分かりませんが、あの血のりがただの舞台道具であったことから察するに、皆に対して本当に害意を持っていたわけではなかったのだろうと信じています。

強いお酒を飲んだみたい・・・3回もこの台詞を発したばななの真意は、今後色々な考察を見て深掘りしてみたいところです。

 


石動双葉と花柳香子について》

 

怨みのレヴュー。
TVアニメでも繰り広げられた痴話喧嘩の再演・・・かと思いきや、今度こそ2人は離れ離れになるようです。
正直なところ、この2人が本当に別々の道を行くことになるとは思っていませんでした。
幼馴染という関係性は華恋とひかりにも当てはまりますが、双葉と香子は幼い頃から絶えず一緒に過ごしてきた仲。
双方の主張をぶつけ合い、受け止め合い、きっとどちらかが相手に合わせることになるのだろう・・・いやそんなの甘いから。自分の意思は曲げられないから。
画面越しにガツンとお叱りを受けた気分でした。

 

レヴューの導入こそコテコテに仕上がった演出と口上で若干の悪ノリを感じるものでしたが、共依存からの脱却、自己の確立、現実との対峙・・・如実に『劇場版』の、ひいてはシリーズ全体の主旨を表していたレヴューだったと思います。

 

個人的には、導入の立会人としてクロディーヌが参加したのがとても良かったなと思います。
双葉とクロディーヌの関係性大好きなんですよね・・・お互い目標というかコンプレックスになる対象が身近に存在して、その存在に到達するために努力することこそ自己証明になるとすら感じていそうな、近しい雰囲気を持っていた気がします。
そんな友人としての双葉とクロディーヌも、今回の『劇場版』で2人とも次の舞台へ進んだように思います。

 


露崎まひると神楽ひかりについて》

 

競演のレヴュー。
またまひるのぶっ飛び野球場が見れる!
と思ったら、それ以上にとんでもないレヴューが繰り広げられました。もうサイコホラー映画だよ。

 

色々と触れたいシーンはあるのですが、このレヴューで一番重要なのはやはり「ずっと大嫌いだった」という台詞なのではないでしょうか。
この2人の間には、愛城華恋の隣という大きな因縁がある(というよりもまひる側が一方的に因縁を感じている)ことは既知の事実です。
ただ、その因縁もTVアニメで一つの決着を見せ、まひるは自らの舞台を見出すことが出来た・・・と思っていたところにこれ。
一応、レヴュー終演後にまひる「私も演じるのが怖かった、今も怖いよ」といった旨の発言をしていますが、演じた台詞ではあっても嘘ではなかったんじゃないかな・・・と私は感じました。

 

大好きな華恋ちゃん。その華恋ちゃんが大切にしているひかりちゃん。
華恋ちゃんとぶつかることで私の中にある嫉妬は解けて、私は私の夢を追い始めることが出来た・・・なのにあなたは、華恋ちゃんから逃げるの?
華恋ちゃんを大切にしないひかりちゃんなんて許さない・・・。

 

あのサイコホラー演出も、全てはひかりに対して真っ正面からぶつかるまひるの心だったのだと思います。それにしても怖過ぎるが?

そして、もう一つ私が重要だと思っているのがまひるからひかりへ渡された、ボタンで出来た金メダルです。
あのボタンは地下劇場で繰り広げられたオーディションにおいて、斬り飛ばされると敗北を意味するものであり、引いては奪い奪われるキラめきの象徴、あるいは舞台少女のキラめき(=舞台少女としての命)そのもの・・・そう私は解釈しています。

オーディションの敗北条件はあくまで上掛けを落とされることであって、ボタンを失うことではない(実際、ボタンではなくロープを斬られて敗北する描写もある)のですが、劇中で幾度もボタンが弾け飛ぶ様子が描かれること、TVアニメのオープニングで再生産を連想させるかのように粉々のボタンが元通りになること等から、やはり象徴的な描かれ方をしていることは間違い無いと思います。

 

そして更に重要なのが、劇中で唯一このボタンを他者へ引き渡したのが露崎まひるであること。
TVアニメ最終話において華恋が自力でボタンを修復したことはありましたが、誰かがこのボタンを他者に与えた/与えられたというような描写は他に無かったと記憶しています。

 

舞台少女としてのキラめき。舞台少女の命。
それを失い、更には競演のレヴューですら敗れたひかり。
「華恋が怖かった」と吐露するひかり。終盤には、更に「華恋のファンになるのが怖かった、目を奪われた自分が許せなかった」とも明かします。
舞台役者のファンになってしまうことは、私たち観客からすると何の変哲もないことのように感じられます。
しかし、彼女は舞台少女。トップスタァを志す自分が誰かのファンになるということは、自ら白旗を上げることに等しい。

舞台に身を捧げてきた彼女にとってこれほど恐ろしいことはなかったでしょうね。ましてや、相手は幼い頃に自らの手で舞台の世界へ引き入れた華恋。
そんな恐ろしさから逃げ出して、聖翔2年A組の皆から離れ、1人・・・。


そんなひかりに対して、ボタンで出来たメダルをかけてあげるまひる
「私も怖かった。」

怖いのはひかりだけじゃない。
でもその怖さを認め、それでも歩むことが出来たなら。

 

華恋ちゃんを大切にしないひかりちゃんなんて許さない。
でも、怖さを乗り越えて華恋ちゃんの元へ行くというのなら・・・そんなひかりちゃんこそ、私の大好きなひかりちゃんだから。

 

かつて華恋に救われたまひるが、華恋にとっての星であるひかりを救う。あまりにも美しい関係性だと思います。この相互関係を思うだけで涙が出る。
この時、まひるはもう彼女の目指す舞台少女として大きく成長し始めていたんじゃないでしょうか。
まさに燦々と降り注いで生命を与える太陽のように。

 



記事があまりにも長くなってしまうので2回に分けたいと思います。
語り足りない、まだまだ・・・。